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2017年5月から、徒然な日常を拙い文章ながら綴っております。更新は不定期です。

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菓子「小城羊羹」

今回は小城羊羹をいただきました。

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小城羊羹とは、外側が砂糖が固まってしてシャリシャリとしており、内側が柔らかくしっとりとした味わいのある昔ながらの製法で作られた羊羹です。

KIKUは外側のシャリシャリ感がとても好きです!外側と内側の差異が癖になります。

 

小京都として知られる佐賀県小城(おぎ)市は、老舗の羊羹屋がたくさん並んでおります。

日本が鎖国体制をとっていた頃は、異国の文化・技術・文物は長崎街道を通って全国各地に運ばれたと言われております。その貿易品のひとつが、当時の日本では大変貴重だった砂糖でした。街道沿いの佐賀県では、砂糖が比較的手に入りやすかったことから、お菓子の文化も発展したのだと思われます。

村岡総本舗小城羊羹を代表する老舗の1社で、小城羊羹という名称を初めて使用したといわれているお店です。

 

 

ところで、なぜ羊羹「羊(ひつじ)の羹(あつもの)」と書くのか疑問に思ったことはございませんか?

羹とは熱い汁物という意味があります。つまり野菜・山菜・羊のお肉を入れて作られた中国料理の汁物のひとつを指しておりました。この汁物が冷めるとお肉のゼラチンによって固まり、"煮こごり"のようになった状態が禅僧文化とともに日本に渡来しました。

しかし、禅僧たちは仏教の戒律により肉食を禁じられておりました。そこで、羊肉のかわりに小豆などを使い精進料理に仕立てました。

 

その後、禅僧文化に深く影響を受けた茶の湯の点心としても用いられるようになります。そして茶の湯の発展とともに現在の蒸し羊羹のようなお茶菓子になったようです。

こちらは豊臣秀吉も大変愛用・賞味されたといわれております。(聚楽第において諸侯を招いて催された大茶会の引出物にもされたことでも有名です。)

 

秀吉候伏見城(=指月城)を築城したことにより、京都伏見は大いに発展し、茶道の興隆や南蛮文化の流入などの新しい文化が芽吹いていたのでしょう。1589年(天正17年)には、千利休の助言などもあり、寒天を使った新しい羊羹、いわゆる練り羊羹が伏見の鶴屋(現.総本家駿河屋)によって初めて作られたといわれております。(江戸時代に入ると、鶴屋紀州(現.和歌山県)に転封となった徳川頼宣(とくがわ-よりのぶ)候に召し抱えられるかたちで紀州に移り、紀州家御用御菓子司を務めました。紀州へ移った後も伏見の店舗は残されて総本家駿河と呼ばれることになりました。)

 

実は羊羹の由来にはもうひとつの説があり、羊の肝に色や形が似ている羊肝糕(ようかんこう)という蒸した餅が、元々の始まりともいわれています。

 

KIKUは個人的に前者の説を支持しておりますが、なかなか決定的な原拠がありません。何れにせよ、新事実の発見や学説の変化で歴史の教科書が変化していくように、これらの説も時代によって移り変わっていくのかもしれませんね。